共感と同情の境界線
相手があまりに悩んでいて、自分が同情したくなることは、きっと誰にでもあると思います。
たしかに、同情すればラポール(信頼)は築けるかもしれませんが、それが本当の意味で本人のためか、というとそういうものではありません。
たとえば、怪談の『牡丹灯籠』
肉体を持って生きている主人公(新三郎)が、お露(おつゆ)という女性の幽霊に出会い、話を聞いているうちに「情」にほだされ、自らの「気」を「幽霊の気」に合わせていくうちに、とうとう死へ道連れになる、という話です。
これは怪談話でもフィクションでもなく、普段、コミュケーションのひとつとして行っている「同情」することにも含まれていると思うのです。
感情というのは、同情してもらえたり、思い出して感じきったからといって、もう二度とその感情を思い出さなくなるというものではありません。 むしろ思い出すと涙が出るような激しい感情は、また思い出して涙する、ということを繰り返すことになりがちです。
しかも、同情した人にその感情は伝染し、増幅され、牡丹灯籠でいうお露の誘惑に釣られるようなものです。 「お願い~、一緒に落ち込んで~。私と一緒に泣いて、死んで~」という感じです。
こういうときこそ、相手が本当に望んでいることに意識を向けるが大切です。
ヒーラーは同情したり、相手の感情をもらったりすることはありませんが、一般の人が精神性を向上させるためにも、同情(相手と同じ気持ちになること)と、共感(相手の感情を理解すること)を明確に認識していなければなりません。
相手の表層的な意識は、同情してもらうことを望んでいるように思えるのですが、別の視点で見てみると、悲しみを膨らませたいとは思っていないようにみえます。(これも価値観や思い込みが含まれていないか注意を払う必要はあります)
コーチングをするコーチは特に、相手に共感しつつも、客観的な視点を持つことが求められます。 誰もがついつい、目の前の現象に意識が向いてしまいがちですが、「溺れている人を助けに行って一緒に溺れるのではなく、岸辺からロープを投げて助け出す」という意識は常に必要です。
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